合資会社 伊吉書院
〒039-1161 青森県八戸市大字河原木字神才6-1
TEL : 0178-28-8555 FAX : 0178-28-8556
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西店
青森県八戸市大字河原木字神才6-3
電話番号 / 0178-28-8211 FAX / 0178-28-8210
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類家店
青森県八戸市南類家一丁目3-1
電話番号 / 0178-47-0222 FAX / 0178-47-0333
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伊藤 篤
0178-28-8555
0178-28-8556
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書籍、雑誌、文房具、事務用品の販売、教科書の販売、学校教育、社会教育の充実・向上の為にする各種研究開発事業、出版業
社 歴
1885年(明治18年) | 伊藤吉太郎が書肆伊吉商店を創業(書肆(しょし)=本屋)当時、伊藤氏は私財で小学校へ書籍の寄付や巡回文庫を創設した。 |
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1893年(明治26年) | 活版印刷業を営む(八戸初)この頃書籍、広告印刷、出版業の他、楽器、洋酒、洋品などを扱っていた。 |
1924年(大正13年) | 八戸大火で被災し、八戸市三日町に店舗を移転 |
1948年(昭和23年) 9月 | 合資会社伊吉書院として法人化 |
1994年(平成6年)3月 | 類家店オープン |
1996年(平成8年)12月 | 西店オープン |
1999年(平成11年)12月 | 旭ヶ丘店オープン |
2015年(平成27年)5月 | 盛岡サンサ店オープン |
2015年(平成27年)6月 | 本社移転(西店隣に移転) |
伊吉書院の沿革
1911(明治44)年発行の「八戸便覧」の一節に「陸奥八戸二十三日町」の 「書肆(し)伊吉商店」が出した広告が掲載されている。
「書籍雑誌、楽器 理化器、博物館標本運動具、教育的雑記帳及び筆墨紙、椅子(いす)学校用具一式、活版印刷」とある。
店名の由来となった伊吉こと、伊藤吉太郎が手掛けた商売は、この広告文 の品目にとどまらない。
毛皮に洋品、洋酒、新聞の取次所。そのほとんどが この地域でのさきがけとなった。
しかし、吉太郎の名が今に伝わり、高い評価を受けるのは明治、大正の時代、 私財を投じて創設した「伊吉巡回文庫」にある。
今様に表現すればブックモビール(自動車文庫)であり、メセナ(文化支援)でもある。
青森20世紀の群像
閲覧場所は学校
八戸市三日町にあった伊吉商店の店内(1929年撮影)。 大時計と鏡のある奥の帳場には吉太郎の長男富三郎が座っている。手前右下の女児は孫の二子。
八戸市立図書館所蔵の是川尋常小学校の文書に三戸郡役所が10年、郡内の町村に通達した「伊吉巡回文庫規定」が残されている。「八戸町書肆伊藤富三郎の寄付により郡内小学校に参考書を提供し教育上の利益を図ることを目的とする」 で始まる規定は八条から成る。これが記録に残る文庫の始まりである。
寄贈者は長男富三郎の名だが、表題が伊吉とあるように、商売のさい配はひとり 吉太郎が振るっており、文庫の発案、実行も吉太郎とされる。名を伏せたのは、実弟の事業がつまずき、頭を丸めるなど表向き一線を退く体裁を取ったためとみられる。
伊吉巡回文庫は学校を閲覧場所とし、15日間留め置き、次の学校に引き渡す。
車のない時代だ。荷馬車か大八車で運んだのだろう。記録には1号から3号まで記されており、少なくとも3台の文庫が当時の都内32町村をリレーしながらくまなく回った。
是川尋常小の校長平田慶次郎の名で記された11年の報告書には利用状況の一端が記されている。30日間で40人が閲覧、7人が貸し出しを受けた。閲覧した 図書は歴史3、小説1、修身4、国語2、おとぎ話27、実業2、農業1、理学1冊と ある。
学校を閲覧所とし、おとぎ話が最も読まれていることから分かる通り、利用者の大半は児童生徒だったろう。書物が手に入らない時代だ。書物を前にし目を輝かせる子どもたちの姿が浮かぶ。
吉太郎の文庫にかける思いは何だったのか。三女・はなが母で現在、六日町で民芸店を営む伊藤二子(つぎこ)は26(大正15)年の生まれ。晩年の祖父吉太郎 とともに暮らした。伊吉商店は24年の八戸大火の後、三日町に新しい店舗を構えていた。
吹き抜けの天井にはシャンデリアと金と銀色の玉飾り。壁には大時計が据えられ、 赤く塗られた仕切りの書棚は、更紗(さらさ)染めの布張り。ほぼ同じ時期に建てられ た八日町の河内屋が昨年、国の登録文化財に指定されたが、現存すればさぞや 伊吉も、と思わせる。
伊吉の家は正月ともなれば年賀の訪問客が絶えない。客はお年玉をもって帰るのが習い。「いいな、みんな何かもらえて」と口をとがらす幼い二子に、吉太郎は 「人からもらうより、上げることのできる人が幸せなんだよ」と諭した。
万引の男を厚遇
手代(使用人)は4、5人。ほかに”ねえや”の女手がいたが、食事から何から分け 隔てしないのが吉太郎の流儀。月に一度の休みと給料も八戸で一番先に実施した。
万引きの男に茶を出し、食事を与え、また来いと言って帰す。食べるものがない人 にと軒先には米の入った竹筒をつるす。
吉太郎にはこんなエピソードが事欠かない。ニ子は、「文庫のことは母からも詳し く聞かなかったが、祖父の言動を思うと不思議なことでない」と話す。
吉太郎の五男文吉の子で現在、三日町などで伊吉書院を営み、出版事業も懸命 に続ける伊藤誠は「市立図書館の戦前の蔵書の多くが伊吉の寄贈だとか、家が 一軒建つまで客に掛け売りをしてくれた、という話を聞く。それもこれも地方文化の 灯を絶やすまいとした吉太郎の遺志ではなかったのか」と思いを寄せる。
伊吉の巡回文庫は富国強兵、殖産興業の明治からデモクラシー、大衆文化の大 正へ、と移り行く時代の中で生まれた。”官製”の青年団などを母体に組織された 簡易図書館が各地に誕生する20(大正9)年を最後に記録から途絶える。しかし、 この時代、商店主の寄贈によって活動した文庫は全国的にも珍しい。
八戸市立図書館百年史執筆者のひとり、劇作家で八戸短大教授小寺隆韶は「八戸には時折、時代の先へ飛び出す人が出る。吉太郎もその一人だが、巡回文庫 など、庶民的な分野で実践したことを評価したい。伊吉さんと呼ばれ、信望も厚かっ たようだ」と話す。
記録上はわずか11年の活動だった。しかし、児童生徒に読書の楽しさを知らせ、文化向上を図ろうと吉太郎のともした小さな灯は、各地に図書館の開設を促し、90年を経た今も輝きを失わない。
1999年(平成11年)6月5日 東奥日報夕刊より